[新居常七]
天保5年(1838)上野桐生町にて出生。父は機業家惣左門で第7子の子供として成長し、一度横浜に移り住むもふたたび東京に移住、初め仲橋にて時計商を起こすがその後、明治6年(1873)銀座ニ丁目に出店し屋号を「近江屋」とする。
店は時計のみならず写真機、測量機などの機械物を販売し次第に大店舗となり、諸官庁の御用を務め東京における時計商として有名店となる。
明治15年(1882)頃、日本橋本石町の時計商大野徳三郎と共同で蛎殻町三丁目に国産掛時計工場を設立(職工10数名)して国産掛時計の製造を目指すことになり、明治16年(1883)に製造を開始するがその後大野徳三郎が時計製造から離脱し新居常七の個人会社となる。
蛎殻町製造の時計には諸説があるが、私は明治16年が最も正しいと思っている。
明治16年8月7日の朝野(ちょうの)新聞に新居常七の「近江屋」の広告が出ており、朝野新聞広告の内容はち
「新居常七時計製造場 日本風、西洋風、瓢箪型、八角、四ツ丸ダルマ、スリゲル型、各種変幻自在なり。御注文承り候」
とある。広告の内容からすればどんな型でも製造している様に受け取れるが、実際は製造できたかは疑問である。
これ以前には蛎殻町製造の時計の記録はなく、時計を製造したとするなら当然明治14年(1881)に開催された第2回内国勧業博覧会に出品されるはずが出品されていない。このことから製造されていないと断言出来るのではないだろうか。第3回内国勧業博覧会には新居常七の名があり掛時計数点が出品され「有功ニ等賞」をもらっている事からやはり蛎殻町製造の時計は明治16年が正確であろう。
明治21年の東京府の統計書によれば時計製造数350個と記されていることから製造数はあまり多くないようである。その後、東京府の統計書には明治24年(1891)以後蛎殻町時計工場の製造記述はなく、明治24年には蛎殻町の製造工場を他人に売り渡していることから製造不能でありよって蛎殻町製の時計は明治16年から明治24年までの約8年間となることがいえる。
新居常七は掛時計の製造からは手を引くことになるが、その後明治31年(1898)京浜の有力時計商11名の出資で東京本郷向ケ岡弥生町に日本懐中時計製造工場を設立し社長に就任。20型、16型アンクル式懐中時計を製造、世に言う根津時計である。しかし約4年で解散することになり掛時計製造及び懐中時計製造の双方とも長続きはしなかった。
時計商としては大いに成功して東京時計商工業組合第2代頭取となり明治44年2月11日(1911)に永眠する。
享年78歳であった。
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